2012年08月30日

走るときにももを高くあげるように指導するのは、まったくの間違い

(『身体から革命を起こす』より)

日本の陸上競技会は、奇妙な迷信に長らく覆われてきて、そのことに気付いてから、ようやく10年ほどにすぎないという。1991年に東京で世界陸上選手権大会が開催された際に、出場した世界のトップアスリートたちの走る様子が膨大なビデオに撮影され、その分析によって、ようやく日本人がずっと信じこんでいた「マック式」と呼ばれるスタイルが間違いであったと理解されるようになったのである。

「マック式」とは、腿を高くあげて前方にふりだし、地面を強く後ろへ蹴る、という走り方である。東京オリンピック後に招へいされたゲラルド・マックというコーチの説明が誤訳されて広まり、「正しい走り方」として教え込まれてきたものだった。後にマック氏自身が、日本での誤解の広まりを知って驚き、来日して訂正のために奔走したこともあったそうだが、それでも状況は変わらなかったという。

まさに迷信だったわけだが、その理論が間違いであることは、諸国の優れたアスリートたちが実際に走っている姿を分析することによって初めて明らかにされ、その後、理論的にも説明ができるようになった。

高橋佳三氏によれば、日本人と欧米人の陸上選手の走法の大きな違いは、足首の使い方にあるという。

「日本人は足が地面につくときも、足首やひざをいったん曲げてから伸ばして、地面を後ろへ蹴って走るんですが、欧米の選手は、足をついたときの足首やひざの角度のまま前に出ます。足首を曲げて伸ばす動きで出せる力なんてたいしたことないんで、固めておいて前に出したほうがずっといいんです。だから、足をあまり高くあげることもない。日本ではよくもも上げをやらせましたが、上げるより、下げるほうが大事だったんですね。足がついて身体を前に出す瞬間だけ、力が入ればいいわけです。その後は後ろに流れても無駄だから、すぐに引き上げます。だから、足首を固めて使うんです」

このように説明されてみれば、ももを高くあげることも、足で強く蹴ることも、早く走ることの役にはたたず、むしろ妨げになることは明白で、なぜ、そんなことが長年信じられていたのか不思議なくらいである。
だが、日本の陸上競技会の常識として、「マック式」は、選手たちの身体を縛り続けてきたのである。


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2012年08月29日

イタリアンマフィアとは?



ゴッドファーザーなどの映画でイタリアンマフィアに興味を持った人は多いのではないでしょうか。


(シルヴィオ ピエルサンティ「イタリア・マフィア」より)


・なぜ、ミラノのような大都市ではなく、シチリアのような田舎でマフィアが発達したのか。

それには、シチリアを支配した外国勢力の態度が大きくかかわっている。
フェニキア人、ギリシャ人、ビザンチン王国、アラブ、ノルマン、ドイツのシュタウフェン王朝、フランスのアンジェ王朝、スペインのブルボン王朝など、彼らの目的は個人的な富だけで、シチリア経済の発展や社会の安定などには眼もくれなかった。
その結果、シチリアでは人心の荒廃が進んだ。このような社会情勢を土壌としてマフィアは発達していくことになる。

・マフィアに求められる性格

マフィアになるためには、男らしい性格でなければならない。男らしいとはなにか?一言で言えば、凶暴ということだ。
もちろん、ホモセクシャルなどは論外。他の異常性癖者もマフィアには厳禁である。
イタリア・マフィアは売春と賭け事をビジネスとして行うことはない。この二つは名誉ある男のする仕事ではないとみなされているからだ。
マフィアの主要な資金源は麻薬である。



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フランク・シナトラが受けた屈辱





(シルヴィオ ピエルサンティ「イタリア・マフィア」より)


・フランク・シナトラが受けた屈辱

1960年代、アメリカのコーザノストラは新たな大使として、フランク・シナトラを大使としてシチリアに送った。
シチリアで次期の大ボスとして有力視されていた、ジェンコ・ルッソに会うためだ。
シナトラは気がすすまなかった。
しかし、シナトラとしても、その命令に背くことはありえない。マフィアの後ろ盾なしに、シナトラの歌手としての成功はありえなかったのだから。
シチリアに着いたシナトラに対し、ジェンコ・ルッソは最大の屈辱を与えた。

フランク・シナトラの泊まるホテルへ車が到着し、シナトラをドン・ジェンコの屋敷へ案内した。シナトラはボディガードを一人もつけなかったが、それはドン・ジェンコの敷地内にいる限り、、自分の身柄は安全だとドン・ジェンコに示すためだった。

シナトラは彼に弱みを見せたくなかった。田園の巨大な家の中庭に降りていく。その家は特別に豪華とも言えなかった。ボスはブドウ畑を訪れているので、待っているように言われた。1時間後、遅れたことには一言もなく、大きな広間に案内された。中央の大テーブルには、豪華な食事が用意され、12人の男たちが腰かけていた。ドン・ジェンコは当然のごとく主賓席に座る。他の男たちはまるでボスのクローンのように見えた。皆真っ白のワイシャツとサスペンダー、ノーネクタイ、毛深い胸板を誇示し、十分に手入れをした黒ひげをはやし、コッポラ(ベレー帽)をななめにかぶっていた。



皿にはまだなにものっていなかったが、皆すでに赤ワインを飲んでいた。ボスは大きなスープ入れを三つ持ってこさせる。一つはヒヨコ豆とパスタのスープ、シチリアの名物料理である。実にカロリーの高い料理だ。しかしマフィアは健康のことは考慮しない。コレステロール値が高いことより以前に別の理由で死ぬことが多いからだ。どんなときでもどんな場所でも起こりうることである。生きている間はできる限り人生の喜びを味わっておこうと考える。

次の日も、その次の日も、シナトラは健康診断の結果を気にする余裕もなく席につかされた。ドン・ジェンコから最も遠い席だった。空の皿に、銀の杓で料理が盛られる。決まって最後がシナトラである。マフィアの伝統的なしきたりなのだ。ゲートインした競走馬がレースのスタート合図を待たされている時のように、ボスが食べ始めるのをみんなが待つ。ボスが一口目を口に入れると同時に全員が同じように食事を始める。何分かは食べる音だけが聞こえ、誰も話をしない。

美味だったことを示す儀式として、お皿に残ったソースをパンですくって食べる。これもボスが始めると同時に全員が真似をする。

自家製の大きなパンを左手で胸の前に持ち、右手でズボンの右ポケットから自分のジャックナイフをだし、一切れを胸の方向に切り落とす。次に左側の人にパンをまわす。その人もナイフをポケットから出してパンを切る。パンがシナトラにまわってきた。シナトラは赤面して、パンをどうしたらよいかわからずにいた。彼はふだんナイフなど持ち歩いていなかったのだ。全員が信じられないという様子でシナトラを見た。『名誉ある男』がジャックナイフひとつ持っていないなんて、ロビンフッドが弓を持っていないか、三銃士が槍を持っていないかという事態だ。目をつむれないことである。「うんざりするやつだ」と年配の男が若者に冷たく教える。

ドン・ジェンコが給仕に「ドン・フランチェスコにナイフを」と命令する。『ドン』(尊敬の意)をつけてナイフを持たない男を皮肉った。これは最高の冷やかしである。嵐のような笑いをさそった。

会話は、最近の殺人罪のことや、政治家の友人の手助けで行った違法な入札についてだった。
ボスは上機嫌のように見えた。フランク・シナトラは屈辱を受け、仲間外れにされていた。ボスは彼に一言もかけず、食事が終わるまで完全に無視した。最後にテーブルから立ち上がったボスは、突然厳しい口調でシナトラに「それで?」と尋ねた。ジョン・ケネディ大統領の個人的な友人で、ハリウッドスターのシナトラ。何百万人ものファンを抱え、世界中の美しい女性が彼の足もとにひざまずき、アメリカのコーザノストラの大ボスから大使として送られてきた男、高圧的で喧嘩好きの男が、一言も答えられなかった。

ボスの質問は一言だったが、多くの意味合いが含まれていた。
「それで、誰がボスだかわかったか?それで、本当の『名誉ある男』がどんなものかわかったか?それで、自分たちがビジネスの仲介にきた男をどのように扱うかわかったか?それで、ここではアメリカの監視は必要ないことがわかったか?もし来たかったら来てもかまわないが、指揮をとるのは俺たちだ。それについて異存はないな?」

実に明白だ。シナトラは同意しうなだれる以外にはなかった。ボスの車でホテルに送られたシナトラは、ボディガードにすぐに旅支度を整えるように命令し、彼のプライベートジェットでニューヨークへ向かった。無事でよかったと思いながら。あのとき、生きてドン・ジェンコの家から出られないのでは、と本気で思ったのだ。

ヤクザへの対処法


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2012年08月26日

麻薬を愛した文学者たち

(中島らも「獏の食べのこし」より)


この世には「中毒もの」なるジャンルが明らかに存在する。あるいは薬物による影響が認められる作品をくり入れていけば、これはかなりあなどれない一体系を形成するにちがいない。

ボードレールの詩篇には、「ハシシュ」なる一編があるのを見てもわかるように大麻系のアルカロイドの影響が見られる。極論を唱える人にいたっては、ボードレールの詩学の根幹をなす万物照応(コレスポンダンス)の論理はハシッシュによって研ぎ澄まされた諸感覚のもたらしたものだと主張して譲らない。ボードレールはまた阿片チンキの常習者でもあった。

ドイルの創り出したシャーロック・ホームズは堂々たるコカイン中毒者である。推理という作業にはなるほど精神昂揚作用のある薬物はおあつらえむきにはちがいない。ドイル自身の電気を読んだことがないので推測だが、おそらく作者本人も精妙なストーリーテリングを維持するためにはコカインの力にあずかるところが多かったのではないだろうか。

阿片系の薬物、モルヒネ、ヘロインなどに溺れるのは昔は文士の一つの典型的スタイルのようなものだった。ジャン・コクトーには「阿片」という、そのものずばりの詩集がある。フランスの大詩人で「手紙」という戦時中の名作で知られるアンリ・ミショーはライフワークとして「みじめな奇蹟」などの、薬物による精神状態の記述を何冊も残している。これを詩篇と勘違いして買ってしまうと、興味のない人には二、三頁も読めないだろう。実にトリビアルでねっちりとした記録である。

オルダス・ハクスレーの「知覚の扉」もこの手の本としては名高い。恐怖小説の古典である「ねじの回転」の作者、ヘンリー・ジェイムスの父親は「笑気ガス」による幻覚の記述を残している。変わったところでは「仮面の孔」なる奇作を書いたジャン・ロランはエーテル(シンナー)愛好者で、その幻覚をもとにこの作品を書いている。

ヘルマン・ヘッセも大麻の愛好家で、「荒野のおおかみ」に出てくる、宿のランタンが闇夜のむこうで水晶のように輝く幻想的なシーンは非常に大麻幻覚的な描写であるといわれる。その他、サルトルのメスカリン体験の手記やアントナン・アルトーの阿片編、稲垣足穂のアルコール中毒による「鬼」の幻覚の記述など、いずれも面白い。

日本では麻薬の規制がたいへんに厳重なので、さすがにヘロイン文学などはあまり見ないかわりに睡眠薬中毒、ヒロポン中毒の作家は枚挙にいとまがない。芥川龍之介の短編、「歯車」のシーンはまさに睡眠薬中毒の幻覚そのものだし、同薬の中毒者としては太宰治や川端康成が有名だ。

(中略)

亡くなった澁澤龍彦氏の小文の中に次のような記述を見つけて深くうなずいた覚えがある。つまり、LSDによろうが、何十年という荒行の結果であろうが悟りの境地というのは同じものであって、辿り着く道順がちがうだけの話だ、
という、主旨である。同感だ。

それともうひとつ、僕がこれらの中毒ものにひかれるのは、その魂の欠落のありようをはっきりと手でなぞることができるからである。男が半身である女を求める、女が球の半分である男を求める、それと同じように中毒者たちはその欠落部を注射器による幻覚で埋め尽くそうとする。そして、そこにはちょうどデスマスクのように、白い粉でできた哀しい鋳型がひとつできあがる。たぶん、そういった冷え冷えとした哀しみに僕は中毒しているのだろう。

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2012年08月24日

「日帝三十六年で初めて国の独立が失われた」という嘘

黄文雄「捏造された近現代史」より


ある北朝鮮系の老学者と朝鮮史んいついて議論したことがあるが、彼は例によってまた「韓国(朝鮮)」が有史以降初めて独立を失ったのは日帝時代で、その前は「独立国家だった」という持論を持ち出して譲らなかった。

「では統一新羅以来の歴代王朝が宗主国である中華帝国へ隷属していた事実はどうなんだ」と切り出したら、「あれ(中国)とこれ(日本)とはまったく違う。やはり、ずっと主権国家だった」とむきになって反論してきたので、周りにいた一同が笑った。

天朝の勅使が来朝するたびに、朝鮮国王は城外まで出迎え、慕夏館で太子が酌の礼をするというのが慣例だったが、それは単なる外賓・国賓への厚礼だったのだろうか。反対に朝鮮の朝貢使節は、北京では諸侯の礼さえ得られず、粗末な待遇を受け、百官と同じ宿に宿泊させられていた。
朝鮮歴代王朝は、半島内のすべての出来事をいちいち詳細に書き出し、倭情(日本情勢)まで中華帝国の朝廷に報告する義務を負っていたが、これが属国でなくてなんであろう。
半島の国王が皇帝の逆鱗にふれると厳しく処罰され、貨幣鋳造権まで停止させられた。さらに、半島の反乱平定のおりには、北京朝廷から金銀まで下賜された。

また、清の朝廷から軍隊召集や勅使に対する賄賂禁止の詔書をくだされていた。このような独立国家があっただろうか。


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清から朝鮮国王が受けた屈辱の詳細

井沢元彦「逆説の日本史(11)戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 」より


秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」を、韓国では「壬辰倭乱」と呼んでいることは御承知だと思う。壬辰は干支だが、「倭」は日本人に対する蔑称である。あの元のフビライですら「日本征伐」とは言ったが、日本のことを「倭」とは呼ばなかった。しかし、まあ侵略された側なのだから、それは聞き流すことにしても、聞き捨てならないのは「乱」である。「乱」というのは反乱であり、謀叛の意味もある。つまり、この言葉を使う以上、使った人間は自分のほうが「上位」だと思い込んでいるということだ。

理由はもちろん中華思想である。

李氏朝鮮は後に「小中華の国」と呼ばれる。つまり、あくまで「親分」は中国だが、日本よりは「上位」だという意味だ。だから、これも一種の「差別」なのである。

では、日本よりも「上位」の実態はどういうものか?

壬辰倭乱(1592〜1598)の29年後の1627年、韓国で「丁卯胡乱」と呼んでいる戦いが起こった。

「胡」とはやはり「異民族で野蛮人」という意味だ。それは後金の侵略であった。敗れた高麗はこの「野蛮人」を「兄」として立て、自分は「弟」として仕えるという形で、講和を結んだ。

そののち後金の太宗は国号を清と改め、自ら皇帝と称した。そして、高麗に対して服属を要求してきた。
高麗の仁祖王はこれを拒否した。
高麗にとって、あくまでも中華(中原の支配者)は明であって、清は「皇帝」を名乗るに値しない野蛮国であったからだ。
怒った清の太宗は、ただちに高麗へ侵略軍を差し向けた。
この清との戦いを、高麗は、丙子胡乱と呼んだ。あくまで明に対して操を立てたわけである。
だが、清軍は強力で、高麗軍はあっという間に打ち破られた。そして、太宗は「逆らえば皆殺しにする」と最後通牒を突き付けた。
皆殺しである。降伏するしかない。

仁祖王は涙をのんで降伏した。
降伏するということは、それまで清の風俗に改めるということでもある。
王は「胡服」(野蛮人の服)を着て、京城近郊に造られた受降壇(降伏の儀式をする台)におもむき、土下座以上の屈辱的な礼法である三跪九叩頭によって太宗皇帝を拝礼させられた。
しかも、清は「ご丁寧に」というか恩着せがましくというか、その記録を石碑として後世に残したのである。
それは「大清皇帝功徳碑」なるものである。


ちなみに、歴代の朝鮮国王は、この受降台を恒久化した施設「迎恩門」で、仁祖王と同じように、清の勅使に向かって三跪九叩頭を行わなければならなかった。今、そこには「独立門」という門が建っている。
明治以降、日本がアジアの強国となって清の影響力を弱めたため、朝鮮はようやく清から独立することができた。そこで迎恩問を叩き壊して独立門を建てたのである。ところが、今、韓国人の多くはそこにかつて迎恩問があったことを知らないという。それどころか、この「独立」を「清からの独立」ではなく「日本からの独立」と思い込んでいる人すらいるという。門の建てられた時代(1896年)を見ればそれは明らかなのだが、そう錯覚させる要素はある。一帯が独立公園となっていて、抗日運動を記念する施設がいくつかあるからだ。
また、この功徳碑のことを、韓国では恥辱碑と呼んでいるが、その恥辱の内容も崔氏の著書から紹介しておこう。
清との和平条約である。

一、朝鮮は清に対し、臣としての礼を尽くすこと。

一、朝鮮は明の元号を廃し、明との交通を禁じ、明から送られた勅命と冊印と、明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと。

一、王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。

一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。

一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼みを固くすること。

一、城郭の増築や、修理については、清に事前に許諾を受けること。

一、清に対して黄金100両、白銀1000両と二十余種の歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること。

崔氏によれば、この物品のなかには「妓生と宦官」も入っていたという。

朝鮮は、莫大な金と「喜び組」を差し出すことによって、ようやく生存を許された、ということである。


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2012年08月23日

勘違いしている人が多いが、日本に生えている麻には麻薬成分は含まれていない





(毒と薬より)

インド大麻は、中央アジアを原産とするクワ科の一種だ。中央アジアからギリシア、北アフリカ、インドにかけて分布する草丈の低い一種を、とくにインド大麻と呼ぶ。強い精神作用を持つことが知られており、紀元前9世紀には、インドで薬用に供されている。

これに対して、北ヨーロッパや東アジアに分布する麻は草丈が高くなるもので、主に繊維を利用する。大麻とは、麻を薬用に使うときの呼び方だが、もともとの日本や中国の麻は幻覚作用を含んでいない。

インド大麻の花が咲き始めるころ、花の先端部を採取して刻んだものが「マリファナ」で、樹脂を板や棒状に固めたものを「ハシシュ」という。



暗殺集団の語源だったハシシュ

イラクに、大麻による陶酔感と攻撃性をうまく利用した暗殺者集団があった。歴史に名高い「山の老人(おやじ)」だ。

11世紀、マルコ・ポーロは東方見聞録で、イランの奥地・カスピ海に近い地方に「暗殺教団の谷」があり、「山の老人」が若者に暗殺者教育を施していたと記している。

老人は、12歳から20歳の腕のたつ若者をハシシュで眠らせ、壮大で華麗な宮殿につれてくる。目覚めると美女にかしずかれ、美酒などをふるまわれて夢のような日々を過ごすが、またハシシュで眠らされ、もとの場所に運ばれる。老人は「ふたたびもとの場所に戻りたければ、誰々を暗殺しろ。失敗してもお前たちは天国にいける」と命じ、若者たちは喜んで死地に赴けるという話だ。

この山の老人とは、ハッサン・イ・サバ―である。彼は初代山の老人だが、イスラム教の分派イスマイリ派のなかの支派ニザリ教団を率い、「スンニ派」を確立したといわれる。

そして、英語で暗殺者を「アサシネーション」(アサシン)というが、この語源がハシシュであるという説はよく知られている。

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2012年08月19日

弓弦 イズル「放課後バトルフィールド」のパロディが斬新すぎてついていけない(ネタバレ)

ネットで悪評だらけだったので買ってみたが、なるほど、これは悪評だらけになるのも納得の出来。

ストーリーをつくるときって、主人公に試練を与え、その試練をなんとか乗り越えさせることでカタルシスを得るのがふつうだと思うんだけど、この作品の場合、その試練がなにもない。

たとえば、最後はサバゲーに勝利して終わりなんだけど、その前に作者はどのような試練をあたえているか?
仲間の一人があるサバゲーチームに対戦をお願いしているときに、階段で足をすべらせて怪我(相手チームはまったく悪くない)。
なので、その相手チームになぜか主人公たちは試合をいどみ、勝利。
それだけなんである。
そして、相手チームも別にそれほどの強豪でもないときてる。

外しのギャグのつもりなのかもしれないけど、そのギャグが面白くないし、ストーリーの展開としても不自然。

ストーリー全体の印象としては、暴力女にサバゲーに誘われる。
最初はいやだったんだけど、やってるうちにサバゲーが好きになる。
どういうわけか、周りの女たちも主人公のことが好きみたいだ(たぶん、男とみればだれにでも股をひらくような貞操観念の薄い女なんだろう)。
サバゲーの試合で勝つこともできた。
よかった。
おわり。

このくらいの印象。
うすい。ローソンのカフェオレみたいに、飲みごたえがない。

ただ、この小説に対する悪評は、ストーリーの薄さにむけられているというよりも、むしろ、文章力に対してじゃないかっていう気がする。

アマゾンの評で、誰もがふれているとおり、この文章は他に例を見ないレベル。
正直、おどろいた。




(九段下というキャラが言う)
「絶対に―――許さない!」
 九段下、スイートプリキュアかよ。ちなみにスマイルプリキュアはかなりいいと思う。
 どれくらい俺がいいと思っているか、語ると長いのでやめておく。
 勉強のついでに見ているだけだと……果たして断言できるのだろうか。


この絶対に許さないと言っている対象というのは、さっき話に出てきたサバゲーの相手チームである。
繰り返していうが、悪いことはなにもしていない。
だから、「絶対に許さない」対象ではぜんぜんない。

……これのどこが面白いのだろう?
ただ単に他の作品の名前を出しただけじゃないか。

こういう、文脈を無視して、ただ単に他の作品のセリフを「持ってきただけ」というパロディが、数えきれないくらいあるのである。
そして、そのあとに、主人公の蛇足としかいいようがない感想がつづく。

笑わせたいのだろうか?
しかし、こんなんで笑う人間がいるとも思えない。

同じ作品を知っていることを読者にアピールして、共感をよぼうとしているのだろうか?
お、こいつわかってるな的な感情を読者に持ってもらいたいのか?

自分はよつばと!が大好きなのだが、作中、何度か出てくるよつばと!のパロディはただただ不快でしかなかった。
こんなバカによつばと!の名前を出してもらいたくないという意識のほうが先にたってしまった。

こうした、意味不明なパロディが、時限爆弾のように炸裂しているのが、じつはあとがきである。


 うー、あー、たーやー(見えないダースベイダーと戦いながら)。あ、どうも、弓弦です。ブォン、ブォン。
「ジェダイっていっつもライトセーバー落とすよね。命と同じくらい大事なのに」
 あ、命を捨てろってことか、武士道だな!これから、ミスター・ブシドーって呼ぶわ!げ、原稿が書けない!目に頼るな、フォースを信じるんじゃ!し、師匠!


たったの五行とはいえ、こんな駄文をわざわざ書き写すことに、心底嫌気がさした。


小説という表現物が、どこまでその表現の枠を壊すことができるのかを示したことを知るためには、この本を読まないわけにはいかないだろう。必読。

※ちなみに、この作品を「僕は友達が少ない」と同列に並べている人がいたけれど、それは正しくない。
「僕は友達が少ない」はたしかに文章がうまいとは言いがたいが、とりあえず日本語で書かれていることだけはたしかだし、またギャグの意味もちゃんと理解できる。

[アニメ感想]Angel Beats!が糞アニメである3つの理由

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2012年08月18日

「もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。」福田 恒存

戦後教育においては、戦前の修身科によって示されていた諸徳目、即ち忠、孝はもとより、深切、友情、正直、勇気等々の一切の徳目に代わって、平和と民主主義という二つの理念が国民道徳の根幹を成すものと定められたのであります。
平和や民主主義がいかに大事なものであろうと、それはあくまで政治的概念であって道徳的概念たり得ぬことは今さら言うまでもありますまい。
しかし、小学生に向かっていかに平和教育を施したところで、彼らとしては国際政治における平和維持という具体的な問題を到底自分たちの日々の行為の標準となしえませんから、その結果、彼らはそれを当分自分たちとは縁のない、しかし神のように終生それに背くことのできない道徳上の最高善として受け取る以外に手はないということになります。
しかも、それに到達する過程の、彼らにも可能な諸々の下位の徳目が教えられない以上、この最高徳目は戦前の忠義以上の抽象性と絶対性をもって彼らに君臨するというわけです。
のみならず、政治的概念と道徳的概念とのすり替えということが既に一元論的絶対主義を助長するという点では、戦前の修身教育以上に効果的であったと言えましょう。
こうして単に政治上の消極的な意味しか持ち得ぬ平和という言葉が戦後日本の最高価値を示すものとなったのです。

言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。
しかも、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。
なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。
もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。
命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものと言えば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。
その全部とは言わないまでも、その根幹をなすものをすべて不要のもの、ないしは悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。
平和が最高価値というのは、生命が最高価値ということです。
その意味でもエゴイズムとヒューマニズムのすりかえ、あるいは混同が生じております。





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なぜ竹刀は刀より長いのか?

日本の剣術 (2)

一般に竹刀の長さは三尺八寸を定寸としている。現代人は体格がよくなったこともあり、一般に使用するのは三尺九寸であり、さらに長くなっている。
一方、刀であるが概ね刃渡り二尺三寸、あるいは三寸五分を定寸としている。これも現代人は体格がよいので一般に身長170センチであるなら二尺四寸くらいが適当とされている。

竹刀は全長で表記される。計算すると三尺八寸は約115センチメートル。対して刀は刃渡り二尺三寸として、ハバキ、柄の長さを足して換算すると約98センチメートルであり18センチも長さが違うことになる。この差はどこからきているのだろうか?

幕末、一般には竹刀の長さに決まりがなく、中には異様に長い竹刀を使う者もいたようである。柳川藩の大石進は五尺の竹刀を使った突きで江戸の道場を荒らしまわって有名だが、これに直心影流の男谷精一郎が三尺八寸の竹刀で勝ち、以来、彼が奉行を務めた講武所において三尺八寸を定寸と定め、これが現代剣道に受け継がれたと考えられる。

だが、有名な山岡鉄舟の無刀流のように三尺六寸とわざと短い竹刀を使用し、相手との間を詰め、自らの修行とした場合もあり、現在でも試合では規定の三九を使うが、稽古では三六にこれを詰めて使用している人もいる。だが、やはりそれは特殊な例であり、一般に竹刀の長さは真剣のそれよりも不自然に長い。決まりといってしまえば、それまでだが、このことはなぜそうなのかという納得のいく説明を受けられずにいた疑問の一つであった。

この疑問になるほどと答えてくれたのは明治、大正、昭和の剣道界をリードした剣聖中山博道であり、その著書「剣道手引草」のなかに解説されていた。

「剣道は防具を用いるので、竹刀を握る手には小手をはめている。小手をはめるとこぶしが大きくなり、拳と拳のあいだに距離を置くためには竹刀の柄は素手で握る刀より必然的に長くならざるをえない。そうすると柄だけ長くして刀身の部分が短いのではバランスが悪いので、柄が伸びた分刀身の部分も伸ばし、結果三尺八寸の竹刀が完成した」というのである。
まさに目からうろこの解説であろう。


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現代剣道で八相や脇構えをとらないのはなぜか?(日本の剣術2より)

日本の剣術 (2)より


剣道の教科書にはどれも決まって剣道の代表的な構えが載っている。すなわち、中段(正眼)、上段、下段、八相、脇構えがその代表的なものとして紹介されている。
だが、剣道を学ぶものは必ず疑問に思うことだと思うのだが、実際、面小手をつけて稽古または試合をする場合、ほとんどの構えは中段であり、ごくまれに上段を得意とする選手がいるくらいである。中段は攻防一体の構えとされ、宮本武蔵が「構えの大将」であると述べているくらい大事な構えであるので重要視されるのはもっともとして、他の構えがまったく使われないのはどうしてなのだろうか。剣道を学ぶものは、初めこれを不思議なことと思いながらも、次第にその世界の中に取り込まれてしまい、いつしかこれを不思議だと思わなくなってしまうようである。
私もいまだにこれを明確に説明してもらったことがないし、積極的にわかりやすい説明を受けたこともないのである。実際に稽古で八相や脇にでもかまえようものなら、ふざけていると思われ、瞬時に打ち込まれてしまう。一体、これらの構えは何なのか?
答えかどうかはわからないが、私が八相の構えや脇構えのメリットは何だろうかと考えたとき、ようやく気付いたことがある。
真剣を持って構えればわかるが道場の端から端、あるいは100メートルを構えて敵めがけて走ったとしよう。どのように構えて走るだろうか。上段や中段では走れないことはないが、不自然、不安定である。この場合は八相のように構えるのが自然であるし、そのまま打ち掛かるなら薩摩の剣術のように高い八相から行うのが自然だろう。距離とスピードによっては脇構えも有効と思われる。中段や上段ではバランスを欠いて転倒してしまう恐れがある。
だが、相手と我の切っ先が触れ合う一足一刀の間で攻めあうとしたならば、逆に中段、上段が有利であろう。八相の構えからは、中段相手では上段にあげるか、中段に合わせるか、あるいは一気に斬りかかるしかない。


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