2012年08月18日

「もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。」福田 恒存

戦後教育においては、戦前の修身科によって示されていた諸徳目、即ち忠、孝はもとより、深切、友情、正直、勇気等々の一切の徳目に代わって、平和と民主主義という二つの理念が国民道徳の根幹を成すものと定められたのであります。
平和や民主主義がいかに大事なものであろうと、それはあくまで政治的概念であって道徳的概念たり得ぬことは今さら言うまでもありますまい。
しかし、小学生に向かっていかに平和教育を施したところで、彼らとしては国際政治における平和維持という具体的な問題を到底自分たちの日々の行為の標準となしえませんから、その結果、彼らはそれを当分自分たちとは縁のない、しかし神のように終生それに背くことのできない道徳上の最高善として受け取る以外に手はないということになります。
しかも、それに到達する過程の、彼らにも可能な諸々の下位の徳目が教えられない以上、この最高徳目は戦前の忠義以上の抽象性と絶対性をもって彼らに君臨するというわけです。
のみならず、政治的概念と道徳的概念とのすり替えということが既に一元論的絶対主義を助長するという点では、戦前の修身教育以上に効果的であったと言えましょう。
こうして単に政治上の消極的な意味しか持ち得ぬ平和という言葉が戦後日本の最高価値を示すものとなったのです。

言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。
しかも、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。
なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。
もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。
命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものと言えば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。
その全部とは言わないまでも、その根幹をなすものをすべて不要のもの、ないしは悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。
平和が最高価値というのは、生命が最高価値ということです。
その意味でもエゴイズムとヒューマニズムのすりかえ、あるいは混同が生じております。





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posted by YenGood at 23:48 | Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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