2012年08月26日

麻薬を愛した文学者たち

(中島らも「獏の食べのこし」より)


この世には「中毒もの」なるジャンルが明らかに存在する。あるいは薬物による影響が認められる作品をくり入れていけば、これはかなりあなどれない一体系を形成するにちがいない。

ボードレールの詩篇には、「ハシシュ」なる一編があるのを見てもわかるように大麻系のアルカロイドの影響が見られる。極論を唱える人にいたっては、ボードレールの詩学の根幹をなす万物照応(コレスポンダンス)の論理はハシッシュによって研ぎ澄まされた諸感覚のもたらしたものだと主張して譲らない。ボードレールはまた阿片チンキの常習者でもあった。

ドイルの創り出したシャーロック・ホームズは堂々たるコカイン中毒者である。推理という作業にはなるほど精神昂揚作用のある薬物はおあつらえむきにはちがいない。ドイル自身の電気を読んだことがないので推測だが、おそらく作者本人も精妙なストーリーテリングを維持するためにはコカインの力にあずかるところが多かったのではないだろうか。

阿片系の薬物、モルヒネ、ヘロインなどに溺れるのは昔は文士の一つの典型的スタイルのようなものだった。ジャン・コクトーには「阿片」という、そのものずばりの詩集がある。フランスの大詩人で「手紙」という戦時中の名作で知られるアンリ・ミショーはライフワークとして「みじめな奇蹟」などの、薬物による精神状態の記述を何冊も残している。これを詩篇と勘違いして買ってしまうと、興味のない人には二、三頁も読めないだろう。実にトリビアルでねっちりとした記録である。

オルダス・ハクスレーの「知覚の扉」もこの手の本としては名高い。恐怖小説の古典である「ねじの回転」の作者、ヘンリー・ジェイムスの父親は「笑気ガス」による幻覚の記述を残している。変わったところでは「仮面の孔」なる奇作を書いたジャン・ロランはエーテル(シンナー)愛好者で、その幻覚をもとにこの作品を書いている。

ヘルマン・ヘッセも大麻の愛好家で、「荒野のおおかみ」に出てくる、宿のランタンが闇夜のむこうで水晶のように輝く幻想的なシーンは非常に大麻幻覚的な描写であるといわれる。その他、サルトルのメスカリン体験の手記やアントナン・アルトーの阿片編、稲垣足穂のアルコール中毒による「鬼」の幻覚の記述など、いずれも面白い。

日本では麻薬の規制がたいへんに厳重なので、さすがにヘロイン文学などはあまり見ないかわりに睡眠薬中毒、ヒロポン中毒の作家は枚挙にいとまがない。芥川龍之介の短編、「歯車」のシーンはまさに睡眠薬中毒の幻覚そのものだし、同薬の中毒者としては太宰治や川端康成が有名だ。

(中略)

亡くなった澁澤龍彦氏の小文の中に次のような記述を見つけて深くうなずいた覚えがある。つまり、LSDによろうが、何十年という荒行の結果であろうが悟りの境地というのは同じものであって、辿り着く道順がちがうだけの話だ、
という、主旨である。同感だ。

それともうひとつ、僕がこれらの中毒ものにひかれるのは、その魂の欠落のありようをはっきりと手でなぞることができるからである。男が半身である女を求める、女が球の半分である男を求める、それと同じように中毒者たちはその欠落部を注射器による幻覚で埋め尽くそうとする。そして、そこにはちょうどデスマスクのように、白い粉でできた哀しい鋳型がひとつできあがる。たぶん、そういった冷え冷えとした哀しみに僕は中毒しているのだろう。

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2012年08月24日

「日帝三十六年で初めて国の独立が失われた」という嘘

黄文雄「捏造された近現代史」より


ある北朝鮮系の老学者と朝鮮史んいついて議論したことがあるが、彼は例によってまた「韓国(朝鮮)」が有史以降初めて独立を失ったのは日帝時代で、その前は「独立国家だった」という持論を持ち出して譲らなかった。

「では統一新羅以来の歴代王朝が宗主国である中華帝国へ隷属していた事実はどうなんだ」と切り出したら、「あれ(中国)とこれ(日本)とはまったく違う。やはり、ずっと主権国家だった」とむきになって反論してきたので、周りにいた一同が笑った。

天朝の勅使が来朝するたびに、朝鮮国王は城外まで出迎え、慕夏館で太子が酌の礼をするというのが慣例だったが、それは単なる外賓・国賓への厚礼だったのだろうか。反対に朝鮮の朝貢使節は、北京では諸侯の礼さえ得られず、粗末な待遇を受け、百官と同じ宿に宿泊させられていた。
朝鮮歴代王朝は、半島内のすべての出来事をいちいち詳細に書き出し、倭情(日本情勢)まで中華帝国の朝廷に報告する義務を負っていたが、これが属国でなくてなんであろう。
半島の国王が皇帝の逆鱗にふれると厳しく処罰され、貨幣鋳造権まで停止させられた。さらに、半島の反乱平定のおりには、北京朝廷から金銀まで下賜された。

また、清の朝廷から軍隊召集や勅使に対する賄賂禁止の詔書をくだされていた。このような独立国家があっただろうか。


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清から朝鮮国王が受けた屈辱の詳細

井沢元彦「逆説の日本史(11)戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 」より


秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」を、韓国では「壬辰倭乱」と呼んでいることは御承知だと思う。壬辰は干支だが、「倭」は日本人に対する蔑称である。あの元のフビライですら「日本征伐」とは言ったが、日本のことを「倭」とは呼ばなかった。しかし、まあ侵略された側なのだから、それは聞き流すことにしても、聞き捨てならないのは「乱」である。「乱」というのは反乱であり、謀叛の意味もある。つまり、この言葉を使う以上、使った人間は自分のほうが「上位」だと思い込んでいるということだ。

理由はもちろん中華思想である。

李氏朝鮮は後に「小中華の国」と呼ばれる。つまり、あくまで「親分」は中国だが、日本よりは「上位」だという意味だ。だから、これも一種の「差別」なのである。

では、日本よりも「上位」の実態はどういうものか?

壬辰倭乱(1592〜1598)の29年後の1627年、韓国で「丁卯胡乱」と呼んでいる戦いが起こった。

「胡」とはやはり「異民族で野蛮人」という意味だ。それは後金の侵略であった。敗れた高麗はこの「野蛮人」を「兄」として立て、自分は「弟」として仕えるという形で、講和を結んだ。

そののち後金の太宗は国号を清と改め、自ら皇帝と称した。そして、高麗に対して服属を要求してきた。
高麗の仁祖王はこれを拒否した。
高麗にとって、あくまでも中華(中原の支配者)は明であって、清は「皇帝」を名乗るに値しない野蛮国であったからだ。
怒った清の太宗は、ただちに高麗へ侵略軍を差し向けた。
この清との戦いを、高麗は、丙子胡乱と呼んだ。あくまで明に対して操を立てたわけである。
だが、清軍は強力で、高麗軍はあっという間に打ち破られた。そして、太宗は「逆らえば皆殺しにする」と最後通牒を突き付けた。
皆殺しである。降伏するしかない。

仁祖王は涙をのんで降伏した。
降伏するということは、それまで清の風俗に改めるということでもある。
王は「胡服」(野蛮人の服)を着て、京城近郊に造られた受降壇(降伏の儀式をする台)におもむき、土下座以上の屈辱的な礼法である三跪九叩頭によって太宗皇帝を拝礼させられた。
しかも、清は「ご丁寧に」というか恩着せがましくというか、その記録を石碑として後世に残したのである。
それは「大清皇帝功徳碑」なるものである。


ちなみに、歴代の朝鮮国王は、この受降台を恒久化した施設「迎恩門」で、仁祖王と同じように、清の勅使に向かって三跪九叩頭を行わなければならなかった。今、そこには「独立門」という門が建っている。
明治以降、日本がアジアの強国となって清の影響力を弱めたため、朝鮮はようやく清から独立することができた。そこで迎恩問を叩き壊して独立門を建てたのである。ところが、今、韓国人の多くはそこにかつて迎恩問があったことを知らないという。それどころか、この「独立」を「清からの独立」ではなく「日本からの独立」と思い込んでいる人すらいるという。門の建てられた時代(1896年)を見ればそれは明らかなのだが、そう錯覚させる要素はある。一帯が独立公園となっていて、抗日運動を記念する施設がいくつかあるからだ。
また、この功徳碑のことを、韓国では恥辱碑と呼んでいるが、その恥辱の内容も崔氏の著書から紹介しておこう。
清との和平条約である。

一、朝鮮は清に対し、臣としての礼を尽くすこと。

一、朝鮮は明の元号を廃し、明との交通を禁じ、明から送られた勅命と冊印と、明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと。

一、王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。

一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。

一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼みを固くすること。

一、城郭の増築や、修理については、清に事前に許諾を受けること。

一、清に対して黄金100両、白銀1000両と二十余種の歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること。

崔氏によれば、この物品のなかには「妓生と宦官」も入っていたという。

朝鮮は、莫大な金と「喜び組」を差し出すことによって、ようやく生存を許された、ということである。


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2012年06月22日

秀吉には右手の指が6本あった?


(井沢 元彦「逆説の日本史(11)戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎」より)

秀吉には右手の指が6本あった。
これはまったく別の系統の二つの資料にのっていることであるから、ほぼ事実とみなしてかまわない。
差別意識を助長するという理由からか、この事実はあまり知られていないが、こうしたコンプレックスが秀吉という人間になにがしかの影響を与えたことは間違いがない。

本能寺の変後、秀吉は天下をとった。
そのことを現代の我々は知っているから、このことに不思議を感じないけれども、実はこれは大変に不思議なことだ。手品といってもいい。
というのも、本能寺の変のあと、信長の息子は何人も残っていたからだ。
天下をとるためには、信長の子供、また孫を排除しなければならない。
信長は義弟浅井の裏切りのあと、きわめて猜疑心の強い性格となっており、信長の死まで、秀吉は忠臣としてふるまっていた。
それなのに、その忠臣が信長の子孫を裏切り、また死においやるなどということがあれば、秀吉は不義の臣としてのそしりとまぬがれない。
秀吉は権謀術数と得意の人たらしによって、その難関をのりこえていく。

織田家の重臣たちによる清州会議の後、秀吉と柴田勝家は対照的な行動をとった。
秀吉が京近くへ本拠を移したのに対し、柴田勝家は越前国に戻ってしまった。
これは勝家の大失敗だった。
越前は雪が深く、冬になれば軍事行動をとることができない。
秀吉はこの隙に乗じて、岐阜の織田信孝を攻め、降伏させてしまった。
このときに織田信孝の母と娘を人質にとった。
つまり、このあいだまでの主君信長の妻と孫である。
しばらくして、信孝が挙兵したのだが、このとき、人質の二人をはりつけにした。

柴田勝家を滅ぼしたあと、いよいよ家康と小牧・長久手で対決することになるが、軍事的には敗北してしまう。
家康には軍事的に勝てないことを知った秀吉は、なんと自分の母を家康に人質として差し出すという奇想天外な策をろうし、家康を屈服させることに成功した。

・秀吉の外征

従来、日本の歴史学会では、秀吉の唐入りを誇大妄想的な侵略戦争として、断罪してきた。
しかし、当時の日本は世界的にもまれな軍事大国であり、明を侵略することはけっして絵空事ではなかった。
また、これを侵略戦争として断罪する歴史学者はいろいろと見落としていることがある。

たとえば、戦国時代が終わり、平和が訪れるとはどういうことなのかという視点である。
それは、大量の(そして極めて優秀な)軍人が失業するということである。
だから、世界の英雄たちは国内を統一したあと、外征にうってでたのだ。
「もう戦争はこりごりだ」という世論が醸成されなければ、戦争はおわらない。

また、世界史的な視野で考えれば、このとき、スペインは明への侵略を考えていた。
当時のキリスト教国というものは、他国を侵略することになんの罪悪感ももたない。
いや、神を知らぬ野蛮人どもにキリスト教というありがたい教えを広めてあげるのだから、感謝すべきとすら思っている。
こうしたスペインの意図を秀吉も知っていた。
明がスペインの支配下におかれるということは、日本の安全保障にとって、きわめて憂慮すべき事態となる。
結局、スペインの明攻撃は、無敵艦隊がイギリスに敗れたことによって、消滅するのだが、こうしたこともあわせて考えなければ、歴史を知ったことにはならない。

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タグ:歴史
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2012年06月07日

井沢元彦著「仏教・神道・儒教集中講座」のまとめ


古代インド思想では、生きることは苦しみであると捉えられていた。

王子として生まれたシッダールタは 、生きることが苦しみであるのなら、人間はどうしたらその苦しみから逃れられるかということを真剣に考えた。

苦行を経て、彼が到達した考え。
それは苦しみはいろいろなものへの執着が生み出しているということであった。
シッダールタの死後、仏教はその思想の違いから分裂し、様々な宗派を生み出していく。

日本においても、多様は仏教が中国から伝播し、また発展していく。

織田信長が行った比叡山焼き討ちは、単に残虐行為ととらえるべきものではない。
それは、西洋に先んじて行われた政教分離であり、これ以降、宗教による暴力が日本から一掃された。
このことの意味を日本人はあまり気づいていないが、とても重要なことである。


神道はもともと、とても寛容な宗教である。
明治時代に、西洋のキリスト教的一神教要素をとりいれた国家神道はむしろ例外的な状況とみなすべき。


儒教とは中国の古代信仰である「先祖崇拝」をかたちにしたもの。
儒教は宗教ではなく、道徳であり、政治学であるという意見があるが、宗教としてみたほうがすっきりする。

儒教の欠点の一つは尚古主義(古いものがいちばんいい)におちいりやすいこと。
そして、経済を無視しがちなこと。




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