2012年09月02日

民主主義は善を育てない。ただ単に、悪を抑えるだけの機構である。

(福田 恒存「日本を思ふ」より)

民主主義は最善の社会をもたらす最善の方法ではなく、ただ単に最悪の事態を避けるための消極的=防衛的方法に過ぎない。もしそれを最善の方法と考えたとしたら、民主主義ほど始末に負えない代物はないであろう。
言うまでもなく、民主主義は君主、支配者、政府権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思いついたものである。
その意味において消極的=防衛的なのである。
機構の隅々に安全弁を備え、強者の利己心、すなわち悪の跳梁を抑制し防御しようというわけである。
つまり、敵を仮想した思想であり、敵意に備える思想である。

が、悪を抑えるという消極的行為はそのまま善を生む積極性に転じはしない。
悪を行う能力の喪失は善を行う能力の育成を意味しない。人がもし個人の力を以て悪と戦い、これを抑えようとすれば、それは勇気という美徳に通じる。同時に、この美徳の花の根方には利己心という蛆虫も巣食っていようが、この戦いは負ければそれきりの結果論で処理されてしまう。
それでは救われないと思った人間の「知恵」が個人の力の代りに機構の安全弁という物を発明した。
そうなれば、強者の悪を抑えるのに勇気もいらなければ、その他のいかなる徳目もいらない。道徳の介入する余地はどこにもなくなった。万事は法と規則で片が付く。

こうして百年たち、二百年たち、民主主義は見事成功したのである。
強者、実力者をがんじがらめにする機構、なんなら機械と言ってもよいが、それに頼って生活しているうちに、人間は善を行う能力を失い、そしてまた自他の悪をおさえることをそのまま善行と勘違いするようになったのである。
そこへきたのが大衆の蜂起である、というより、そうなれば大衆の蜂起あるのみである。強者の自己主張と自己正当化をおさえることに長年専心しているうちに、その方法がいつの間にかそのまま大衆の自己主張と自己正当化の武器に転化してしまったのだ。

当然、民主主義は蜂起した大衆、すなわち新時代の強者に対しても、その悪を抑制すべき役割を引き受けねばならぬわけだが、実情はそうはいかない。
なぜなら、民主主義は悪そのものを抑制する道徳原理ではないからだ。民主主義は発生的にも本質的にも、強者の悪をおさえる政治的原理に過ぎない。弱者がいかに多数と集団を頼んでも、それが飽くまで弱者である限り、これを抑えることはできない、少なくとも本質的にはその能力はない。
既に明白なことだが、大衆は民主主義の安全弁を常に逆用する。
彼らは「……してはいけない」という消極的理念を、あるいは「……すれば、危険である」という防衛的理念を盾に、自己主張と自己正当化を謀る。

私は民主主義を否定しているのではない。民主主義だけでは駄目だと言っているのである。今日、私たちの政治体制として民主主義以外のものは考えられない。とすれば、政治や政治理念だけで、今日の政治的混乱を処理することは不可能だということになる。
大衆の蜂起はもはや日本だけのことではなく、徐々に世界的規模にまで拡大して行くであろう。
単に学生運動に限らない、恐ろしいのは利己的と怠惰と破壊と、そしてそれらを動機付けし理由づけする観念の横行である。
考えるとは今ではそういう観念を巧みに操ることを意味するようになってしまった。
そういう世の中で本当にものを考え、ものを育てていくことがどんなに難しいことか。


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タグ:思想
posted by YenGood at 19:35 | Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

「もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。」福田 恒存

戦後教育においては、戦前の修身科によって示されていた諸徳目、即ち忠、孝はもとより、深切、友情、正直、勇気等々の一切の徳目に代わって、平和と民主主義という二つの理念が国民道徳の根幹を成すものと定められたのであります。
平和や民主主義がいかに大事なものであろうと、それはあくまで政治的概念であって道徳的概念たり得ぬことは今さら言うまでもありますまい。
しかし、小学生に向かっていかに平和教育を施したところで、彼らとしては国際政治における平和維持という具体的な問題を到底自分たちの日々の行為の標準となしえませんから、その結果、彼らはそれを当分自分たちとは縁のない、しかし神のように終生それに背くことのできない道徳上の最高善として受け取る以外に手はないということになります。
しかも、それに到達する過程の、彼らにも可能な諸々の下位の徳目が教えられない以上、この最高徳目は戦前の忠義以上の抽象性と絶対性をもって彼らに君臨するというわけです。
のみならず、政治的概念と道徳的概念とのすり替えということが既に一元論的絶対主義を助長するという点では、戦前の修身教育以上に効果的であったと言えましょう。
こうして単に政治上の消極的な意味しか持ち得ぬ平和という言葉が戦後日本の最高価値を示すものとなったのです。

言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。
しかも、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。
なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。
もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。
命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものと言えば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。
その全部とは言わないまでも、その根幹をなすものをすべて不要のもの、ないしは悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。
平和が最高価値というのは、生命が最高価値ということです。
その意味でもエゴイズムとヒューマニズムのすりかえ、あるいは混同が生じております。





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