2012年08月19日

弓弦 イズル「放課後バトルフィールド」のパロディが斬新すぎてついていけない(ネタバレ)

ネットで悪評だらけだったので買ってみたが、なるほど、これは悪評だらけになるのも納得の出来。

ストーリーをつくるときって、主人公に試練を与え、その試練をなんとか乗り越えさせることでカタルシスを得るのがふつうだと思うんだけど、この作品の場合、その試練がなにもない。

たとえば、最後はサバゲーに勝利して終わりなんだけど、その前に作者はどのような試練をあたえているか?
仲間の一人があるサバゲーチームに対戦をお願いしているときに、階段で足をすべらせて怪我(相手チームはまったく悪くない)。
なので、その相手チームになぜか主人公たちは試合をいどみ、勝利。
それだけなんである。
そして、相手チームも別にそれほどの強豪でもないときてる。

外しのギャグのつもりなのかもしれないけど、そのギャグが面白くないし、ストーリーの展開としても不自然。

ストーリー全体の印象としては、暴力女にサバゲーに誘われる。
最初はいやだったんだけど、やってるうちにサバゲーが好きになる。
どういうわけか、周りの女たちも主人公のことが好きみたいだ(たぶん、男とみればだれにでも股をひらくような貞操観念の薄い女なんだろう)。
サバゲーの試合で勝つこともできた。
よかった。
おわり。

このくらいの印象。
うすい。ローソンのカフェオレみたいに、飲みごたえがない。

ただ、この小説に対する悪評は、ストーリーの薄さにむけられているというよりも、むしろ、文章力に対してじゃないかっていう気がする。

アマゾンの評で、誰もがふれているとおり、この文章は他に例を見ないレベル。
正直、おどろいた。




(九段下というキャラが言う)
「絶対に―――許さない!」
 九段下、スイートプリキュアかよ。ちなみにスマイルプリキュアはかなりいいと思う。
 どれくらい俺がいいと思っているか、語ると長いのでやめておく。
 勉強のついでに見ているだけだと……果たして断言できるのだろうか。


この絶対に許さないと言っている対象というのは、さっき話に出てきたサバゲーの相手チームである。
繰り返していうが、悪いことはなにもしていない。
だから、「絶対に許さない」対象ではぜんぜんない。

……これのどこが面白いのだろう?
ただ単に他の作品の名前を出しただけじゃないか。

こういう、文脈を無視して、ただ単に他の作品のセリフを「持ってきただけ」というパロディが、数えきれないくらいあるのである。
そして、そのあとに、主人公の蛇足としかいいようがない感想がつづく。

笑わせたいのだろうか?
しかし、こんなんで笑う人間がいるとも思えない。

同じ作品を知っていることを読者にアピールして、共感をよぼうとしているのだろうか?
お、こいつわかってるな的な感情を読者に持ってもらいたいのか?

自分はよつばと!が大好きなのだが、作中、何度か出てくるよつばと!のパロディはただただ不快でしかなかった。
こんなバカによつばと!の名前を出してもらいたくないという意識のほうが先にたってしまった。

こうした、意味不明なパロディが、時限爆弾のように炸裂しているのが、じつはあとがきである。


 うー、あー、たーやー(見えないダースベイダーと戦いながら)。あ、どうも、弓弦です。ブォン、ブォン。
「ジェダイっていっつもライトセーバー落とすよね。命と同じくらい大事なのに」
 あ、命を捨てろってことか、武士道だな!これから、ミスター・ブシドーって呼ぶわ!げ、原稿が書けない!目に頼るな、フォースを信じるんじゃ!し、師匠!


たったの五行とはいえ、こんな駄文をわざわざ書き写すことに、心底嫌気がさした。


小説という表現物が、どこまでその表現の枠を壊すことができるのかを示したことを知るためには、この本を読まないわけにはいかないだろう。必読。

※ちなみに、この作品を「僕は友達が少ない」と同列に並べている人がいたけれど、それは正しくない。
「僕は友達が少ない」はたしかに文章がうまいとは言いがたいが、とりあえず日本語で書かれていることだけはたしかだし、またギャグの意味もちゃんと理解できる。

[アニメ感想]Angel Beats!が糞アニメである3つの理由

放課後バトルフィールド1 (講談社ラノベ文庫)
放課後バトルフィールド1 (講談社ラノベ文庫)弓弦 イズル 美和 美和

講談社 2012-08-09
売り上げランキング : 7266


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by YenGood at 00:47 | Comment(0) | ライトノベル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

「もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。」福田 恒存

戦後教育においては、戦前の修身科によって示されていた諸徳目、即ち忠、孝はもとより、深切、友情、正直、勇気等々の一切の徳目に代わって、平和と民主主義という二つの理念が国民道徳の根幹を成すものと定められたのであります。
平和や民主主義がいかに大事なものであろうと、それはあくまで政治的概念であって道徳的概念たり得ぬことは今さら言うまでもありますまい。
しかし、小学生に向かっていかに平和教育を施したところで、彼らとしては国際政治における平和維持という具体的な問題を到底自分たちの日々の行為の標準となしえませんから、その結果、彼らはそれを当分自分たちとは縁のない、しかし神のように終生それに背くことのできない道徳上の最高善として受け取る以外に手はないということになります。
しかも、それに到達する過程の、彼らにも可能な諸々の下位の徳目が教えられない以上、この最高徳目は戦前の忠義以上の抽象性と絶対性をもって彼らに君臨するというわけです。
のみならず、政治的概念と道徳的概念とのすり替えということが既に一元論的絶対主義を助長するという点では、戦前の修身教育以上に効果的であったと言えましょう。
こうして単に政治上の消極的な意味しか持ち得ぬ平和という言葉が戦後日本の最高価値を示すものとなったのです。

言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。
しかも、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。
なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。
もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものは何もないことを教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。
命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものと言えば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。
その全部とは言わないまでも、その根幹をなすものをすべて不要のもの、ないしは悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。
平和が最高価値というのは、生命が最高価値ということです。
その意味でもエゴイズムとヒューマニズムのすりかえ、あるいは混同が生じております。





日本を思ふ (文春文庫)
日本を思ふ (文春文庫)福田 恒存

文藝春秋 1995-05
売り上げランキング : 211935


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by YenGood at 23:48 | Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜ竹刀は刀より長いのか?

日本の剣術 (2)

一般に竹刀の長さは三尺八寸を定寸としている。現代人は体格がよくなったこともあり、一般に使用するのは三尺九寸であり、さらに長くなっている。
一方、刀であるが概ね刃渡り二尺三寸、あるいは三寸五分を定寸としている。これも現代人は体格がよいので一般に身長170センチであるなら二尺四寸くらいが適当とされている。

竹刀は全長で表記される。計算すると三尺八寸は約115センチメートル。対して刀は刃渡り二尺三寸として、ハバキ、柄の長さを足して換算すると約98センチメートルであり18センチも長さが違うことになる。この差はどこからきているのだろうか?

幕末、一般には竹刀の長さに決まりがなく、中には異様に長い竹刀を使う者もいたようである。柳川藩の大石進は五尺の竹刀を使った突きで江戸の道場を荒らしまわって有名だが、これに直心影流の男谷精一郎が三尺八寸の竹刀で勝ち、以来、彼が奉行を務めた講武所において三尺八寸を定寸と定め、これが現代剣道に受け継がれたと考えられる。

だが、有名な山岡鉄舟の無刀流のように三尺六寸とわざと短い竹刀を使用し、相手との間を詰め、自らの修行とした場合もあり、現在でも試合では規定の三九を使うが、稽古では三六にこれを詰めて使用している人もいる。だが、やはりそれは特殊な例であり、一般に竹刀の長さは真剣のそれよりも不自然に長い。決まりといってしまえば、それまでだが、このことはなぜそうなのかという納得のいく説明を受けられずにいた疑問の一つであった。

この疑問になるほどと答えてくれたのは明治、大正、昭和の剣道界をリードした剣聖中山博道であり、その著書「剣道手引草」のなかに解説されていた。

「剣道は防具を用いるので、竹刀を握る手には小手をはめている。小手をはめるとこぶしが大きくなり、拳と拳のあいだに距離を置くためには竹刀の柄は素手で握る刀より必然的に長くならざるをえない。そうすると柄だけ長くして刀身の部分が短いのではバランスが悪いので、柄が伸びた分刀身の部分も伸ばし、結果三尺八寸の竹刀が完成した」というのである。
まさに目からうろこの解説であろう。


日本の剣術 (2) (歴史群像シリーズ)
日本の剣術 (2) (歴史群像シリーズ)歴史群像編集部

学研 2006-01
売り上げランキング : 67068


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


posted by YenGood at 17:05 | Comment(0) | 武道、格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現代剣道で八相や脇構えをとらないのはなぜか?(日本の剣術2より)

日本の剣術 (2)より


剣道の教科書にはどれも決まって剣道の代表的な構えが載っている。すなわち、中段(正眼)、上段、下段、八相、脇構えがその代表的なものとして紹介されている。
だが、剣道を学ぶものは必ず疑問に思うことだと思うのだが、実際、面小手をつけて稽古または試合をする場合、ほとんどの構えは中段であり、ごくまれに上段を得意とする選手がいるくらいである。中段は攻防一体の構えとされ、宮本武蔵が「構えの大将」であると述べているくらい大事な構えであるので重要視されるのはもっともとして、他の構えがまったく使われないのはどうしてなのだろうか。剣道を学ぶものは、初めこれを不思議なことと思いながらも、次第にその世界の中に取り込まれてしまい、いつしかこれを不思議だと思わなくなってしまうようである。
私もいまだにこれを明確に説明してもらったことがないし、積極的にわかりやすい説明を受けたこともないのである。実際に稽古で八相や脇にでもかまえようものなら、ふざけていると思われ、瞬時に打ち込まれてしまう。一体、これらの構えは何なのか?
答えかどうかはわからないが、私が八相の構えや脇構えのメリットは何だろうかと考えたとき、ようやく気付いたことがある。
真剣を持って構えればわかるが道場の端から端、あるいは100メートルを構えて敵めがけて走ったとしよう。どのように構えて走るだろうか。上段や中段では走れないことはないが、不自然、不安定である。この場合は八相のように構えるのが自然であるし、そのまま打ち掛かるなら薩摩の剣術のように高い八相から行うのが自然だろう。距離とスピードによっては脇構えも有効と思われる。中段や上段ではバランスを欠いて転倒してしまう恐れがある。
だが、相手と我の切っ先が触れ合う一足一刀の間で攻めあうとしたならば、逆に中段、上段が有利であろう。八相の構えからは、中段相手では上段にあげるか、中段に合わせるか、あるいは一気に斬りかかるしかない。


日本の剣術 (2) (歴史群像シリーズ)
日本の剣術 (2) (歴史群像シリーズ)歴史群像編集部

学研 2006-01
売り上げランキング : 67068


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


posted by YenGood at 02:40 | Comment(0) | 武道、格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月07日

そうとうに充実してる将棋サイト

受け将棋研究室
http://shougi.petanko.org/
posted by YenGood at 16:13 | Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月30日

真壁 昭夫著「最強のファイナンス理論」のまとめ

行動ファイナンス理論とは?
・伝統的なファイナンス理論でアノマリー、ノイズとみなされ、意図的に無視されてきた市場の動向を、人間の心理的状況を分析することによって、金融理論をより現実に近づける試みである。
従来の伝統的ファイナンス理論が合理的な投資家と理想的な市場を想定してきたのにたいし、行動ファイナンス理論とは、投資家は必ずしも合理的ではなく、心理的な要因によって左右されてしまうという前提のもとで理論・実証を積み重ねていくものである。

そもそも、伝統的ファイナンス理論とは?
伝統的ファイナンス理論とは「裁定」の考え方を極限まで押し広げたものである。そして、ここでいう「裁定」とは、ざっくり言って「高いものを売って、(それと同等のもので)値段の安いものを買う」ということである。
たとえば、東京と大阪で同じりんごが違う値段で売られていたとする。すると、その値段の差額を利用すればいくらでも儲けることができる。結果、値段は同じ価格に収斂していく(一物一価の原則)。
経済学では、市場で裁定が十分に行われていると想定することを、効率的市場仮説とよぶ。
やや乱暴だが、伝統的ファイナンス理論そのものが、効率的市場仮説と単純化しても、大きく間違いではないだろう。
ただし、これはあくまで仮説である。
ここで重要なのは市場が非効率的であれば裁定取引で儲けることができるが、市場が効率的であれば、裁定取引で儲けるチャンスはないということである。

ヒューリスティックとはなにか?
ヒューリスティックとは、簡単にいうと、物事をざっくりとらえることである。日本語でいえば、直感的という言葉が使われる。理解しやすくなる反面、このことによって、判断のミスも生じることがある。

初頭効果とは?
後に述べられたことよりも、最初に述べられた特質のほうが、認識や評価の過程において大きな影響力を持つ可能性があるということだ。つまり、第一印象に大きなウェイトが与えられたのである。もう一つは、与えられる情報量が増加すると、情報に対する集中力が減少して、後からの情報に大きな注意が払われないということ。

初頭効果の例
「A社の前期の業績が発表された。売上高は順調に伸びている。しかし、利益率は20%低下した」
「A社の前期の業績が発表された。利益率が20%低下したものの、売上高は上昇した」

おそらく、多くの人が、最初の文章のほうがA社に対して、よいイメージを持つだろう。

アンカーリングとは?
アンカーリングとは、最初の参考値に過大なウェイトがおかれることである。

アンカーリングの例
世論調査を行うさいに、「来年の日本経済は悪くなるとおもいますか?」と聞くのと、「来年の日本経済はよくなるとおもいますか?」と聞くのでは、回答が違ってくる。
質問に答えが引っ張られるからだ。
「今年度の日本経済は、いまだ景気回復の兆しを見ることができませんが、来年の日本経済もやはり悪くなるとおもいますか?」と聞けば、さらに効果てきめんだ。質問者の意図にそった答えを引き出すことができる。

連言の誤り
実験をしてみよう。

「ここにリンダという名前の女性がいる。彼女は31歳。独身で非常に知的で、はっきり物を言う女性である。大学時代は哲学を学び、学生のころは社会正義と差別問題に関する活動に深く関わってきた。され、あなたが、この女性の今を推測する場合、以下の二つの選択肢のうち、どちらが可能性が高いと考えるだろうか?

@彼女は銀行員である。
A彼女は銀行員で、女性運動で活動している。」

もし@を選んだとしたら、あなたは冷静で理性的だ。しかし、実際には多くの人がAを選ぶ。なぜだろうか?
この文章を冷静に考えてみると、Aは@の銀行員であるという条件に加えて女性運動の活動家という条件が加わっている。つまり、Aのほうが@よりも可能性が高いことなんてありえないのだ。
連言の誤りとは、二つのイベントが同時に発生する確率は、一つのイベントの発生確率よりも低いにもかかわらず、複数イベントの同時発生が個々のイベントよりも確率が高いと考えてしまう現象のことである。

経験的な関係の過大推計
人間はときに存在しない相関関係すら、あたかも存在しているかのように錯覚してしまうことがある。
たとえば、第二次世界大戦中、ロンドンはドイツ軍のロケット弾攻撃の被害にあった。
市民はロケット弾が目的地をめがけて、正確に打ち込まれているに違いないと思った。実際、「ドイツのスパイがいる地域にはロケット弾は落ちない」という噂もながれたという。
しかし、実際にはドイツ軍はまったくランダムにロケット弾を打ち込んでいたのである。
市民の頭のなかには「ドイツ軍は強く技術力が高い」「ロケット弾を打ち込むときはねらって打つものだ」という思い込みがあったために、ありもしない経験的な関係を認識し、しかも過大に評価してしまったのだ。

プロスペクト理論とは?
行動ファイナンスの肝となる理論。
一言で説明するなら、「人間には利益をなるべく早く確実にしたい一方、損失は先送りしたいという傾向がある」ということ。
実際の投資行動で見るならば、「値上がりした株はすぐに利益を確定しがちであるが、値下がりした株はすぐに売って損失を確定することができない」ということ。

プロスペクト理論に関する実験結果によると、人間は利益がでている場面と損が出ている場面では、リスクに対するとらえかたが変わることが示されている。
利益が出ているとき、人はリスク回避的な行動をとり、ハイリスク・ハイリターンよりも、ローリスク・ローリターンのほうを好む。
一方、損失が出ているときはむしろリスク愛好的になる。ハイリスク・ハイリターンの行動を好みがちになる。











最強のファイナンス理論 (講談社現代新書)
最強のファイナンス理論 (講談社現代新書)真壁 昭夫

講談社 2003-02-18
売り上げランキング : 402744


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by YenGood at 15:47 | Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月24日

「ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門」のまとめ


私が短編小説を書くよりも長編小説をおすすめする理由
・短編小説は売りにくい。
・短編よりも長編を書くほうがむずかしいということはない。ただ単に長いだけだ。
・短編を書くには優れたアイデアを必要とするが長編はそうでない。

作家はどこからアイデアを得るのか?
・よく人からはこういう質問をされるが、これほど答えに窮するものはない。
もちろん、アイデアの多くは無意識の底から湧きだしてくる。しかし、それ以外にも、たとえば事実の断片からアイデアをひねりだすことだって可能だ。
ニュース雑誌の記事や百科事典の記述をもとにして、一遍の小説を書くことは可能だし、私は実際にそうしたことがある。


小説の書き方(出だし)

1出だしで話を動かす。
出だしに関して新人作家の一番よくない点は、寒い朝の旧式のステュードベイカーよりエンジンがかかりにくいことだ。
一番最初に読者の気を引くような書き方をしよう。
いきなりアクションから始めてもいい。また、読者の注意をひくような、会話から始めてもいい。

2雰囲気をつくる。
読者が小説世界に入っていきやすいように、視覚的な雰囲気を作る。

3問題を提示する。
プロットの核となる問題をできるだけ速やかに読者に提示することは、ときに作家の最大の関心事である。

小説の出だしはよくなければならない。そうでなければ誰も先に読み進めようとはせず、小説の残りはせっかくの機会を失ってしまうのだ。

小説の書き方(キャラクターの移動シーンについて)

・新米の小説家にとって、人物を部屋に出し入れしたりするのはとてもむずかしい。
多視点の小説では、これはただ、ひとつの場面を閉じて、別の場面を別の場所と時間で始めるだけのことだ。それでも著者は読者にどのくらいまで(場面の状況を)知らせなければならないかという選択を迫られるが、登場人物が未来永劫、地下鉄に乗っているということはない。しかし単一視点の小説はあらゆる瞬間の行動を説明して、読者に語りすぎてしまうきらいがある。
現在の読者は、映画などの経験によって、場面の転換にはなれているので、その点を考慮して、移動シーンをつくりあげるべき。



ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門
ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門ローレンス ブロック Lawrence Block

原書房 2003-01
売り上げランキング : 283990


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by YenGood at 14:02 | Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月23日

一瞬でのど元を掻っ切る、スロートスラッシュの方法、そして日本刀の切れ味とは?

a0790_000700.jpg


※刃物による刺殺、斬殺(「人殺し大百科」の抜粋)


 メッタ刺しが一時的な狂気のなせる攻撃とするならば正気の証といえる攻撃がある。

 スロートスラッシュ

 背後から忍び寄り口をふさぎ、喉を掻っ切る、というこの方法はミリタリー式斬首術もしくは暗殺術といわれ、ゆるぎない殺意はもちろん冷静さももとめられる。

 別れた妻にたいする私怨か、プロフェッショナルの手による暗殺かーーー世界的な関心を集めたOJシンプソンケースではこの方法で二人が殺された。

 ミリタリー式では、背後から忍び寄り、相手の口と鼻を塞いでから、まず腎臓あたりをナイフで一突きする(もしくは殴りつける)。腎臓を狙うのはここに神経が集中しており、猛烈な痛覚を生み出すからだ。そのまま体勢がくずれたところを左耳下から右耳下にナイフを走らす、といったパターンがとられる。攻撃者が右利きならば、犠牲者の首の左側から右側に刃物が流れる。傷は最初に浅く、次に深くなり最後で再び浅くなるのが特徴だ。

 動物は獲物を仕留める際、誰に教わったわけでもないのに、首に噛み付き相手をねじ伏せてからトドメをさす。狩りの仕方は親より習うのだろうが文字や口伝といった手段を持たない動物達あ教わるまでもなく本能的に知っているのだ。首は急所であるということを。

 首は急所であるーーーこれは刃物攻撃にもあてはまる。皮膚の下に青く浮き上がって見えるのは頸動脈。さらに深いところ、筋肉の下骨に近い部分に位置するのが頸動脈だ。首に指を当てるとパルスを感じるだろう。頸動脈が脳や顔に血液を送っている証拠だ。

 頸動脈は顔や脳に酸素を豊富に含んだ新鮮な血を運ぶ血管で、これが断たれれば脳細胞は死滅する。刺す、切るに限らず一度出血すれば止血は不可能で、心臓に近いところから血の噴出量も多く、1分もかからずに意識を失いそのまま死亡する。


 刃物攻撃に対してはさまざまな思い込みがある。

 たとえば、一般には銃で打たれるよりも刃物で攻撃されたほうが傷の程度は軽いと見られている。しかし、現実はこの逆というケースが少なからずある。
FBIの統計によれば、ある条件下では銃撃後に死亡する確率は10%、刃物では30%になるという。


※日本刀って、どんだけ切れるのか?


 日本刀は自重が1kg近いために形成された傷は切創ではなく斧などによってできる創傷、割創のカテゴリーに分類される。叩き潰すではなく叩き切るーーこの効果は斧の破壊力に日本刀の切れ味をプラスしてはじめて得られるものなのだ。

 日本刀が使われた刃傷沙汰では切断寸前の割創とほぼ貫通に近い割創、そして完全切断が見られる。出血の程度は深いところまで斬られるために噴血状態となり、血液だけでなくリンパ液、その他の体液があたりにまきちらされる。

 その場で一命をとりとめても傷が深いために動脈系の損傷が酷く、止血はほぼ不可能。数時間後にはかならず死ぬ。
 療養所にかつぎこまれた犠牲者が2、3日高熱でうなされてから回復するのは時代劇ではおなじみだが、これは奇跡に近い。
 日本刀による刃傷沙汰の特徴の一つは手指の切断だ。自分も刀を構えているので振り回された刀身を拳でうけとめてしまうというパターンが多く現場には手指が散乱する。


人殺し大百科
人殺し大百科ホミサイドラボ

データハウス 2006-12
売り上げランキング : 92392


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
タグ:殺人術 武道
posted by YenGood at 13:28 | Comment(0) | 武道、格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月22日

「人殺し大百科」の抜粋

・人を殺すということ

人殺しを研究対象にした殺人学(killology)の提唱者デビッド・グロスマン元中佐はこう言う。

・人間は本質的に人を殺すことができない。
・殺人シュミレーションの反復で人殺しを育成することができる。


たとえば、南北戦争で最大の激戦地となった<ゲッティスバーグの戦い>ではほとんどの兵士が発砲せず、銃を打つジェスチャーをしただけであったという。
(中略)
発砲率が低かったとはいえ、北軍、南軍あわせて26万人もの戦死者を数えたのは事実で、中佐の説が真実であれば犠牲者の多くは砲撃によるものと推測できる。
同じような銃撃ジェスチャーはナポレオン戦争や他の南北戦争激戦区でも見られ、中佐は新しいデータとしてFBIがまとめた1950年代、1960年代の警察官の低い発砲率なども引き合いにしている。
同じような結果は近代戦争でもみられた。第二次世界大戦中、敵兵に向かって発砲した兵士は全体の15%〜20%だったという。特殊な兵器、たとえば火炎放射器や車両搭載型マシンガンは常に発射されていることが多く、発砲回数は上官の「撃て」の号令で格段に増えた。ところが、銃の出番がなくなると大部分の兵士は銃を敵に向けようとしない。つまり、できれば人を殺したくなかったのだ。
敵と接近すればするほど銃が撃てなくなるという心理は容易に理解できる。10km先の目標にむかってミサイルを打ち込む、2マイルの距離から敵の陣地に迫撃砲を発射する、1km先からスナイパーライフルで狙撃する------これはOKだ(ビデオゲームを見ているような錯覚を覚えた湾岸戦争はニンテンドーウォーと評された)。それでは50m先の敵に向かってライフルを打つ---このあたりから抵抗を感じるようになる。さらに近づいて10mぐらいから、もしくは至近距離からピストルで撃つ、銃剣で突き刺す---このあたりになるとほぼ全員が抵抗を感じるはずだ。
大佐の持論は、人間も他の動物と同じく基本的に同類を殺すことはありえないというもので、これを抵抗感の正体と位置づけている。野生の世界では縄張り争いや繁殖期のメスの奪い合いで雄同士が激しい戦いを繰り広げる。角をぶつけるといった頭突き攻撃が多く、喉を噛み切るといった致死的な攻撃はない。爬虫類や魚類の世界でも同じだ。ガラガラヘビやピラニアは互いに絡み合い、組み伏せたり、尾ひれを激しく打ち付ける程度でそれ以上のことはしない。動物には本能的に種の断絶を防ぐメカニズムが働いているのだ。

湾岸戦争ではほぼ全員の兵士、およそ90%近くが<敵を殺す>という明確な殺意をもって発砲した。第二次世界大戦終戦後、400近くの歩兵連隊を調査したところ敵に向かって発砲した兵士は15〜20%しかいなかかった。この調査結果に戸惑ったペンタゴンは教練の方法を一から見直すことになった。これまでは黒丸だったターゲットを人型にし、さらに固定式から移動式にした。実践に近づけるために射撃訓練の最中、教官は兵士の頭上めがけてサブマシンガンをぶっぱなした。こうして鍛えあげられた結果発砲率は湾岸戦争で90%までにあがった。

社会は必然的に闘争本能がはぐくみにくい環境になっている。しかし鳥のように空を飛べない生物は本質的に同類を殺せないようにプログラムされている。このリミッターをどうすれば外すことができるのか。
古来、人間は闘争本能を駆り立てる方法を探していた。兵士教育ではこのリミッターをいかに早く振り切るかが課題になっている。
リミッターを外すためのメンタル教育はこうして行われる。

・機械的な反復
・敵を非人間化させる
・殺人の責任を団体(愛国心・忠誠心)のなかで希釈化させる
・自責や後悔を上官命令にすりかえる

人殺し大百科
人殺し大百科ホミサイドラボ

データハウス 2006-12
売り上げランキング : 92392


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

タグ:裏社会
posted by YenGood at 22:12 | Comment(0) | 武道、格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青山 光二著「ヤクザの世界」の抜粋

ヤクザのケンカの原因をつきとめていくと、いちばん多いのが顔の問題である。喧嘩を買わなかったり、身内が顔をつぶされたのを、オトシマエ(解決)をつけないままですませたりすると、あとあと差しさわりがある。つまり、ヤクザモンとして生きていく上に支障をきたすという、稼業上の現実的な理由が、喧嘩の原因となるのである。

出入りをひかえて、特に訓練をすることもある。浅草の寺で、某親分の葬式があったとき、乗りこんでいって、宿敵をピストルで射ち殺したという事件があったが、この男は一月も前から射撃の練習をしていた。大森の海岸で、岸壁の上に卵をずらっとならべて、夜明け方に射撃の稽古をした。一月ちかく毎朝やった。そして、葬式の当日乗りこんでいって、ちゃんと狙った相手を殺している。こういうことになると、ヤクザは一生懸命やるようだ。
もっとも、ほんとにどうしても殺そうという場合には、ピストルよりも短刀がいちばん確実な武器になる。親分衆がよくいうことだが、どうしてもやってこいというときは、短刀を渡す。ピストルではダメだ。ピストルは証拠が残らないから、おどかすのにはいいが、殺そうというときには、短刀を持っていって、相手に抱きついてしまう。そこでえぐれば確実である。

(人を殺した後、居酒屋で酒を飲みながら警察を待っているときに)気がついてみると、こっちは血刀をぶらさげたまま。はなそうと思っても、刀がどうしても手から離れない。筋肉が硬直してしまっている。巡査に言って、刀を手からもぎとってもらって、やっとお縄をちょうだいしたという。

博徒は寺に、テキヤは神社に縁が深いというのは興味深い。賭博開帳の際、場所代の意味で胴元かの収益から差し引くかねをテラ銭というのはもちろん、昔の博徒が寺の一室を借りて開帳することが多く、謝礼として収益の一部をお寺に贈ったことからきているのである。

四分六の兄弟分というのは、親分乾分の関係とあまり変わらない場合が多い。七三にいたっては、さらにそうである。もちろん、正式の盃事をして、これで四分六の兄弟の盃がすんだということになるわけだが、四分六になったということになると、四分のほうの舎弟は、たとえば座布団に座っておっても、六分の兄貴がその座にきたら、座布団をおりなければならないというくらいの違いがある。なお、五分五分の盃事には盃を二つ使うが、四分六や七三の場合には一つの盃にみたした神酒を、兄貴分おほうが六分なら六分まで呑み、あとを相手にさげてやるのである。

四分六の盃いは、こういう場合がある。たとえば、Aという男がBという男に盃をさげてもらいたい、つまり、乾分になりたいという場合に、Aにすでに親分があったとすると、二人の親分を持つということはできないから、四分六の兄弟ということになるのだ。名前は兄弟分だけれども、こういう場合、実質は親分乾分みたいなもので、それぐらいの隔たりがある。


ヤクザの世界 (ちくま文庫)
ヤクザの世界 (ちくま文庫)青山 光二

筑摩書房 2000-09
売り上げランキング : 264379


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by YenGood at 21:21 | Comment(0) | 裏社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
人気記事
    タグクラウド
    ×

    この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。